宮部鼎蔵の生涯
宮部鼎蔵は、文政三年(1820)四月、上益城郡七滝村大字田代(御船町上野)に宮部春吾の長男として生まれました。宮部家は代々医者でした。鼎蔵も七歳ごろから医学を学んでいましたが、十八歳の時から山鹿流の兵学を学び始めました。二十八歳の時には兵学師範役を仰せつかり、熊本の内坪井に住むようになりました。
鼎蔵と親交のあった人物として有名なのが、長州(山口)の吉田松陰でした。松陰は、山鹿流の兵法の研究のために、嘉永三年(1850)の秋、初めて熊本に来て、鼎蔵の家に泊まり、鼎蔵のはからいで肥後の志士との交流を深めました。
嘉永四年(1851)の春、鼎蔵は初めて江戸に上り、松陰と共に東北諸藩を周り、各地の志士との交流を深めました。
文久二年(1862)十一月、長岡護美(もりよし)が禁裏守衛のため京都に行くことになったので、鼎蔵も同行しました。翌三年に全国諸藩から選抜された親兵隊三千人が結集しました。三条実美公が総督となり、鼎蔵は総監に任命されました。
八月十八日に朝議が一変したので(八・一八の政変)、三条公ら七卿は西に下り、鼎蔵もそれに従って長州に行きました。その後、鼎蔵は筑後の真木和泉らと忠勇隊を組織して再び京都に上り、尊攘派の勢力回復に挺身しました。同志の二十数名と三条小橋の池田屋で会談中に新選組に襲われ、奮戦しましたが、多勢に無勢、しかも不意をつかれて事窮まれりと見て自決し、波乱の一生を終えました。元治元年(1864)六月五日で鼎蔵四十五歳でした。
鼎春園
鼎春園は、宮部鼎蔵と弟の宮部春蔵の生家近くにある公園です。今日は、熊本県上益城郡御船町上野2215にあるその鼎春園に行ってきました。
宮部鼎蔵の生家
鼎春園の近くに、宮部鼎蔵の生家があります。