小泉八雲の生涯
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、嘉永3年(1850)6月27日、ギリシャで生まれました。父はアイルランド人で、当時ギリシャ駐在の軍医であり、母はギリシャ人でした。父は満期帰国ののち妻を離別しました。3歳のハーンは幼な心に母を慕い、もの心つくにつれ、冷酷な父に対してはげしい反感を募らせました。
ハーンは16歳のころ左眼を失明し、残る一眼は先天的な強度の近眼でした。それは家庭的な不幸と相俟って、彼の性格を一層孤独にし、非社会的にしました。ただ一方で無類の読書家にし、空想・夢想の詩人にしました。
19歳の時渡米し、貧困生活の中に苦学を続け、ついに新聞記者として認められるに至りました。
明治23年(1890)かねてから深く心を引かれていた日本にやって来ました。神の国出雲の松江に住み、やがて松江中学校の英語の教師になりました。そしてこの地の風俗人情が気に入り、小泉節子を娶(めと)り、明治28年(1895)に帰化して小泉八雲と改名しました。
明治24年(1891)11月、旧制五高(現熊本大学)の教師として熊本に赴任しました。はじめ手取本町の赤星晋作氏宅(現小泉八雲熊本旧居)を借り、神棚に大神宮のお札を収めて、毎日柏手(かしわで)を打って礼拝してから黒髪の五高に人力車で通ったといいます。翌25年11月坪井西掘端町(現坪井1丁目)に転居して、この家で長男一雄が生まれました。
五高では校長嘉納治五郎、教授秋月胤永(かずひさ)らの好遇を受け、熊本の風土と純真素朴な五高生に親近感を抱き、明治27年(1894)1月には全学生に対し「極東の将来」という名講義を行っています。「肉体は野蛮人であれ、頭脳は文明人であれ、九州あるいは熊本スピリッツを養え、贅沢華美(ぜいたくかび)を捨てて、質素簡朴(しっそかんぼく)、善良なるものを愛せよ。これが即ち日本を偉大にする所以(ゆえん)であり、東洋の覇となる所以である……」と。
この真撃な言葉が、当時の五高生に異常な感銘を与えたことはいうまでもありません。彼は日本を愛し、日本関係の作品が多いですが、名作「東の国から」と「心」の二編は熊本におけるおおきな収穫でした。3年の任期が満ちて、神戸のクロニクル社の招きに応じて、熊本を離れたのは明治27年(1894)11月でした。
その後、東京に落着いてからは、東大・早大で教鞭をとっていましたが、明治37年(1904)9月26日に54歳で急逝しました。
小泉八雲熊本旧居
小泉八雲の熊本で最初に住んだところに行ってきました。