横井小楠の生涯
横井小楠は、文化6年(1809)、熊本藩士の次男として生まれました。藩校の時習館に学び、29歳で居寮長という時習館で最高の地位に就きました。
31歳の時、藩命で江戸に遊学し、藤田東湖や川路聖謨らと交わりました。しかし、小楠は酒乱の性質があり、酒の失敗で1年経たないうちに熊本への帰国命令が下りました。
帰国してから、実学党を結成し藩政改革を試みますが、藩内の主流派の反撃を受けて失敗しました。小楠は、熊本藩においては、用いられることはありませんでした。
43歳の時、20余藩を遊歴し、吉田松陰や橋本左内らと交わりました。その旅で立ち寄った福井藩で歓待を受けました。
嘉永6年(1853)、小楠が45歳の時、浦賀にペリーが来航しています。47歳の時、熊本郊外沼山津村に転居(四時軒)しました。
50歳の時、福井藩の藩主・松平春嶽(慶永)に招かれて、政治顧問となりました。万延元年(1860)、52歳の時、「国是三論」を著し、開国通商、殖産興業による富国強兵を提唱しました。また、春嶽が幕府の政事総裁職に就くと、そのブレーンとして幕政改革や公武合体の推進に手腕を発揮しました。
54歳の時、江戸で刺客に襲われましたが、命は助かりました。しかし、友人2人を見捨てて逃げたため、士道忘却事件として熊本藩の沙汰を待つことになりました。結局、武士の身分をはく奪されて熊本の沼山津に蟄居することになりました。この期間に、沼山津の四時軒に坂本龍馬が3度訪れています。
明治元年(1868)、小楠が60歳の時、維新後の新政府に呼ばれ、参与となりました。この時、武士の身分を取り戻しています。
明治2年(1869)1月5日、太政官に出仕した帰りに刺客に暗殺されました。61歳でした。
小楠公園
熊本市沼山津の小楠公園には、小楠の遺髪を葬った髪塚(小楠先生横井君の墓)と銅像、小楠顕彰碑があります。そこを訪れました。