清浦記念館

 熊本県山鹿市鹿本町来民1000-2にある清浦記念館に行ってきました。

清浦記念館
清浦記念館の中

 清浦奎吾は、熊本県出身として初めての総理大臣になった人物です。

 清浦奎吾は、幼名を普寂(ふじゃく)といいました。幼い頃から勉学に優れ、神童と呼ばれるほどでした。また元気もよく、近所のガキ大将としても有名でした。

 12歳のとき、熊本市内の名門・浄行寺の養子になりますが、そこでのお経やお勤めが普寂の志に合わず、やがて鹿本町に帰りました。

 その後、普寂は、大津町の大矢野塾に入り、16歳まで勉学に打ち込みました。その大矢野塾で勉学を続けているうちに時代は幕末となり、そこで彼は、こんな時世の時、田舎の塾では面白くない、もっと天下の情勢がわかるところで学びたいと考え、16歳のとき、大分県の日田の咸宜園に入ります。ここは、全国各地から秀才が集まる有名な塾で、普寂は6年間ここで学び、ついには大舎長という塾では最高の地位につき、21歳のとき、意気揚々と故郷鹿本町に帰ってきました。

 それから約1年の後、上京し23歳のとき、埼玉県大教授心得となり、風渡野小学校の校長として教育に力を注ぎました。これが清浦候が官界に入るきっかけとなりました。

 その後、埼玉県学校改正主任として広く名声を挙げたのが認められ、明治9年(1876)27歳のとき、司法省に入りました。

 37歳のとき、内閣省警保局長に抜擢されました。43歳のとき、司法次官になったのを始め、司法大臣3回、農商務大臣、内務大臣を歴任し、大正3年ついに組閣を拝命するまでになりましたが、「機はまだ熟さない」とこれを辞退しました。

 その後、73歳のとき、枢密院議長となり重要な職務に精励し、大正13年(1924)1月、再び組閣の大命を拝し、75歳のとき内閣総理大臣に任ぜられました。施政方針としては、関東大震災の帝都の復興など重要なものがありましたが、議会の協力が得られず、6月に総辞職することになりました。

 総理大臣を辞任した清浦候は、相変わらず国家の元老として、国の内外に大きな影響力を持ちました。大正15年に第4回の中国視察に発ち友好親善に努めるなど喜寿を迎えてもなお矍鑠(かくしゃく)たる清浦候は、社会的公人として、各種団体の育成発展に力を注ぎました。

 また、生まれ故郷の鹿本町には、明治41年(1908)、旧制鹿本中学校内に清浦文庫を創設し、また奨学の為、清浦賞を設けるなど、地域の発展に貢献しました。

 昭和17年11月5日、熱海の米寿庵で93歳の生涯を閉じ、その墓は、横浜の総持寺と鹿本の明照寺にあります。

清浦奎吾の銅像

投稿者

masa

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