徳富蘇峰の生涯
徳富蘇峰は、葦北郡水俣郷で、代々総庄屋を勤めていた徳富家の長男として、文久三年(1863)三月十五日、母久子の実家(上益城郡津森村杉堂)矢島家に生まれました。名は猪一郎で、父一敬は、横井小楠の門弟でした。父が藩庁に召されたので、託麻郡大江村(現大江町の徳富旧邸)に転居しました。
九歳になった猪一郎は、兼坂止水に預けられ、三年間、漢字や和文を習い、続いて熊本洋学校を経て、明治九年(1876)、京都の同志社英学校で西洋の学問を学びました。
明治十五年(1882)二十歳で熊本の大江村の住居に、大江義塾を開校し、塾長となって少年たちを教育しました。県下各地から百名を超える塾生が集まり、「教えるは学ぶが半ば」と自らも学問や読書に励み、心血をしぼって書いた「将来の日本」の好評を契機に、明治十九年(1886)の暮れに一家をあげて上京しました。年が明けると東京に民友社を設立し、わが国最初の総合雑誌「国民の友」を発行して、新しい文学のために尽力しました。
つづいて「国民新聞」を創刊し、新聞界に新風を吹き込みました。記者として、社長兼主筆として言論界に華々しく活躍しました。昭和四年(1929)国民新聞社長を引退した後、毎日新聞の社賓に迎えられ、評論や随筆を発表して、昭和二十年(1945)八月の終戦まで八十三歳の記者としてペンをふるい、日本の言論界に君臨しました。
蘇峰にはもう一つの夢がありました。明治時代の国民の業績を後世に伝えることでした。大正七年(1918)、五十六歳から近世日本国民史の執筆にかかり、新聞に連載し、昭和二十七年(1952)九十歳まで三十五年の歳月をかけ、約五百冊もの本を書いています。昭和三十二年九十五歳でその偉大な生涯の幕を閉じました。
水俣市立蘇峰記念館
水俣市にある蘇峰記念館に行ってきましたが、あいにく閉まっていました。近くにある銅像を撮影してきました。