徳富蘆花の生涯
徳富蘆花は、明治元年(1868)十月二十五日、葦北郡水俣郷で代々総庄屋を勤めていた徳富家に生まれました。蘇峰の弟で本名は健次郎といいました。
七歳の時、本山小学校に入りました。体が虚弱で弱虫、泣き虫、怒り虫などといわれましたが、学業成績は極めて優秀で、八歳頃から日記を書きはじめました。明治九年(1876)神風連の変を目撃し、また翌年の西南の役の時に聞いた話を題材にして、後で、「恐ろしき一夜」「灰燼」を書きました。
十一歳の時、蘇峰に伴われて同志社英学校に西洋の学問を学びましたが、この頃八犬伝、翻訳小説、軍記物などに親しみました。
明治十五年(1882)から蘇峰の大江義塾に学んでいるうちに受洗し、明治十九年(1886)同志社に再入学しました。同志社文学雑誌に発表した「孤墳の夕」は校内にその文名を高めました。やがて郷里に帰り、熊本英学校で一年余、英語教師をしました。
明治二十二年(1889)に上京して蘇峰の経営する民友社に入社し、文筆生活に入りました。翻訳ものからはじめましたが、三十三歳の時、一大出世作「不如帰(ほととぎす)」を出版、一躍文壇におどり出ました。続いて「自然と人生」「思い出の記」などを次々に発表しました。
やがて蘇峰から独立、明治三十九年(1906)キリスト教の聖地エルサレムを経てロシアへ行きました。そこでトルストイを訪ね、その感化をうけて翌年、武蔵野の一角に住み、田園生活をはじめました。さらに蘆花は人道主義にめざめ、明治四十四年(1911)大逆事件では、一高で「謀反論」と題して講演を行い、文学者として幸徳秋水らを弁護しました。
その後、「みみずのたはごと」「黒い眼と茶色の目」「死の蔭に」「冨士」などの名作をのこして昭和二年(1927)六十歳で永眠しました。
『不如帰(ほととぎす)』
徳富蘆花の一大出世作『不如帰』を読んでみました。
『不如帰』は、徳富蘆花の兄徳富蘇峰が主宰する『国民新聞』に明治三十一年(1898)から、翌三十二年まで断続的に連載され、大幅な改稿を経て明治三十三年に民友社から『小説 不如帰』として刊行されました。
日清戦争当時の川島武男と浪子の恋の物語です。一読して、悲しい物語だと思いました。このような話は、明治のこの時代にはたくさんあったのではないかと思います。同郷の偉人、徳富蘆花の他の作品も読んでみたいと思いました。