菊池一族の祖先

 『菊池一族』(阿蘇品保夫)を読みました。

『菊池一族』(阿蘇品保夫)

 菊池氏は古代末から中世にかけて、肥後国菊池郡を本拠として栄えた武士の一族です。

 その出自については、藤原道隆(藤原道長の兄)の子である隆家の家来である則隆が菊池氏の祖です。『源氏物語』の中で「族広く、勢厳しき兵」である肥後国の大夫とは菊池氏の祖先がモデルであろうと言われています。

菊池隆直

 『吾妻鏡』の治承5年(1181)の記事の中に、源平合戦の一方で鎮西の反乱が述べられています。菊池隆直が豊後の緒方惟能と共に平家に背いた事件です。菊池氏が一族をはじめ、国内の武士団を率いて戦ったことの知られる初例です。

 隆直は平氏の派遣した平貞能の戦略に敗れて降伏し、以後平氏に従って壇の浦合戦で討死しました。したがって鎌倉幕府の支配下の菊池氏が恵まれた地位を得ていたとは考えられません。

菊池武房

 蒙古襲来における菊池武房の活躍は、同じ肥後国の竹崎季長が描かせた『蒙古襲来絵詞』に残されています。

菊池武時

 菊池氏の名が歴史上大きく取り上げられたのは、元弘の変の菊池武時の討死です。博多合戦と呼ばれるこの戦いは、隠岐に流され伯耆国(ほうきのくに)船上山(せんじょうさん)(現鳥取県)に脱出した後醍醐天皇に呼応した武時が、博多の鎮西探題北条英時館を襲撃した事件です。

 しかし、同調するはずだった少弐氏・大友氏は寝返り、攻め込んだ武時の率いる菊池勢のほとんどが討死しました。

 しかし、この武時の討死は、楠木正成が軍功の第一と推薦し、嫡子武重は建武新政府から恩賞として肥後守の地位を与えられました。これにより前代の菊池氏の不遇は解消したといえます。

菊池武重・武敏

 建武2年(1335)、新政がくずれ、後醍醐天皇と足利尊氏の争いがはじまると菊池氏は天皇方につきました。

 中央では武重の箱根山合戦、九州では弟武敏が下向して来た尊氏・直義兄弟と戦った多々良浜の合戦について、『太平記』や『梅松論』は述べています。

 以後、60年近く続く南北朝の争乱の中で、菊池氏は九州の南朝方の中心として活躍しました。

菊池武光

 武重の死後、菊池宗家の当主となった弟の武士(たけひと)の時代は、菊池氏の活動が停滞した時期でしたが、代わった武光の時代は菊池氏の勢力が大きく発展した時代でした。

 中央から九州南朝勢力の支配をまかされた征西将軍宮懐良親王(かねよししんのう)の肥後入国があり、親王を擁した征西府の権威で、菊池氏は九州の南朝方勢力の盟主としての地位を得たのです。

 同じ頃九州に入って北朝勢力を分裂させることになる足利直冬方と探題一色範氏の勢力との三つ巴の争いの中で優位を占めた武光は、さらに筑後川の合戦(大保原の合戦)で少弐氏に大きな打撃を与え、征西府を大宰府の地に移して九州における南朝方勢力の覇権を確立したのでした。

 南朝方に制圧された九州支配をとり戻すため、室町幕府は今川了俊(貞世)を九州探題に派遣しました。

 応安4年(1371)九州に上陸した了俊は、北朝方勢力をまとめて菊池勢を圧迫し、翌年8月大宰府を攻め陥しました。敗れた菊池氏は征西将軍を奉じて筑後高良山に陣を定め、2年余にわたり今川了俊と対峙しました。

 しかし、この間に武光、次いで武政と2代続けて当主が陣没するという不運に見舞われ、十余歳の若年で菊池宗家を嗣いだ武朝は高良山を撤退して帰国し、征西府に不利な情勢は明白となりました。

菊池武朝

 武朝は肥後に攻め入った了俊を、水島の合戦、詫麻原の合戦でしりぞけることはできましたが、両者の兵力の差と大勢に抗し得ず、永徳元年(1381)菊池の本城を失い、以後内乱終結まで本拠を奪い返すことはできませんでした。

 その後の10年の間、武朝は2代目の征西将軍宮良成親王を奉じ、肥後南部で転戦しますが、この時内部からの反抗・讒訴(ざんそ)をうけ、これを弁明するため、吉野の朝廷に提出したものが「菊池武朝申状」です。彼はこの中で菊池氏の出自と元弘以前からの朝廷への忠功を述べ、他の南朝方の武士たちとは由緒が異なっていると強調しています。

 南北朝合一の後、武朝は本拠を回復しました。これには探題の今川了俊が肥後の抑えと今後の九州統治のために菊池氏は役に立つと判断したからでしたが、やがて武朝は室町幕府体制の下で肥後国の守護の地位を実力で確保したのでした。

 菊池氏は北朝方の世となったにもかかわらず、名誉ある形で生き残った唯一の南朝方の武家であるといえます。

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masa

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