『菊池一族の興亡』
『菊池一族の興亡』(荒木栄司)を読みました。
この本の中で、菊池一族の歴史を通観してみると、3つの時代区分を設定できる、と書かれています。
第1の時期は、平安時代中期から鎌倉時代の蒙古襲来の時期まで。
第2の時期は、後醍醐天皇の建武の親政から室町幕府に対抗していた時期まで。
第3の時期は、室町幕府に対して従順な態度をとり、全盛期を迎え、大友氏に肥後守護を奪われ大名としての歴史を閉じるまで。
の3期です。
第1と2期は、前回の『菊池一族』の中で取り上げたので、今回は、第3期をまとめてみたいと思います。
菊池持朝
菊池持朝は、菊池武朝の孫です。持朝の父である兼朝の時代までは、足利幕府勢力と戦い続け、反抗していました。しかし、持朝の時代になって、足利幕府に協同した動きを示すようになります。これは、菊池一族にとって大きな転換点になりました。
例えば、将軍の足利義教が、持朝に大友持直と戦うことを要請し、その見返りに、当時大友持直が持っていた筑後守護職を与えるという約束をしたとき、持朝は、その要請に応じました。これは、開幕以来、菊池氏が足利幕府の要求に応じて行動を起こした最初でした。
持朝は、この戦で勝利し、筑後の守護職を得ることができました。武朝の時代には、もうすでに肥後の守護職を与えられていたので、持朝は、肥後と筑後の両守護職を担うことになりました。
菊池為邦
持朝死去の後をついだのは、持朝嫡男の菊池為邦でした。このとき、16歳でした。これ以降20年間の在位期間は、菊池氏の衰退が始まる時期でした。
為邦の代になると、従来のように豊前や筑後にばかり目を注いでいるわけにはいかなくなりました。肥後の領内の球磨、芦北の相良長続が、八代の領有を望み始めたのです。
また、寛正3年(1462)に、足利義政は、大友政親に、それまで為邦が保持していた筑後守護職のうち半分守護職を与えました。3年後、これに反抗して、筑後所領奪回のために兵を動かした為邦は、大友親繁との戦いで敗れ、残りの半分の筑後守護職も取り上げられました。
こうした為邦の武力の弱体化は、内紛を惹起し、次男の武邦が翌年、益城郡の豊福城で兵を挙げました。このとき、為邦の嫡男の重朝が、弟のいる豊福城を攻め落としました。この戦いの後、為邦は37歳の若さで家督を重朝に譲り、自身は亀尾城に隠居したとされています。
菊池重朝
重朝は、17歳で菊池家督となり、肥後守護となりました。翌応仁元年(1467)、足利幕府の膝許の京で、細川勝元と山名持豊の争いが起きました。(応仁の乱)
重朝は、九州での戦乱に加わりましたが、筑後守護職の回復は得られませんでした。
重朝は、宇土為光との勢力争いで敗れ、失意のうちに明応2年(1493)死去しました。45歳でした。
菊池能運(よしゆき)
重朝の嫡子である能運も宇土為光との戦いで敗れ肥前島原へ逃れました。
宇土為光は、菊池に入りました。能運は再起をはかり、再び為光と交戦し、これを破りました。
菊池政隆
能運の死後、家督となったのは、政隆でした。政隆の家臣の中に、阿蘇惟長に菊池家督を継ぐように要請する動きがあり、惟長は、これを受け入れ、菊池姓を名乗り、武経と称しました。
菊池に入ろうとする武経に対し、政隆は武力で対抗しました。しかし、政隆は敗れ、島原へ逃れました。政隆は再び兵を挙げるも、敗れ、自刃して果てたとされています。
武経は、就位6年目の永正8年(1511)、地位を捨てて、菊池を去りました。菊池家臣団の信望を保つことができなかったためと言われています。
菊池武包(たけかね)
菊池武包は、武経が菊池を去った永正8年に、菊池家督となったと伝えられています。
武包は、永正17年(1520)、大友義国(改名して菊池重治)と争って敗れ、大永3年(1523)、筒ヶ嶽に拠って戦い、大友勢に攻め落とされ、島原へ去り、再起せずに天文元年(1532)、その地に没したとされています。
こうして菊池の血をひく人としては、武包が最後の菊池家督となりました。守護大名としての菊池氏の名跡は、大友義国が菊池重治と改名して継承しましたが、この重治も、菊池の名を次代へ引き継ぐことはできず、一代で亡びました。
重治亡き後は、大友宗麟が肥後守護となりました。
このようにして、菊池一族の繁栄の時代は終わりを告げました。