北里柴三郎の生涯
北里柴三郎は、1853年1月29日に熊本県阿蘇郡小国町北里で代々庄屋を務める家に生まれました。
9歳の時に、漢学者の橋本龍雲に預けられ、儒教の経典である”四書五経”を学びました。そして、10歳の時に、母・貞の実家である豊後国森藩(現:大分県玖珠町)の加藤家に預けられ、儒学者の園田保の塾で漢籍や国書を学びました。
13歳で現在の熊本市に遊学し、儒学者・田中司馬と栃原助之進の下で学びました。16歳で熊本藩の藩校・時習館に入寮し、18歳で新設された熊本医学校に入学しました。そこで、オランダ人軍医マンスフェルトと出会い、オランダ語を習得し、医学の道に進むことを決意しました。
21歳で、東京医学校(現:東京大学医学部)に入学し、30歳で卒業すると、内務省衛生局に奉職しました。
32歳でドイツ留学をし、ベルリン大学衛生研究所において炭疽菌の研究や結核菌、コレラ菌の発見の業績で知られる病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホ博士に師事しました。そこで、破傷風菌の純粋培養に成功。また、世界で初めて血清療法を発見し、ジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を開発しました。
39歳で帰国し、福澤諭吉の支援を受け、私立伝染病研究所を設立し、所長に就任しました。41歳の時、香港でペストが流行し、日本政府の命を受けて香港に赴き、ペストの病原菌を発見しました。
46歳の時、伝染病研究所が内務省に移管され、国立伝染病研究所となり、所長に就任しました。
61歳で、伝染病研究所が内務省から文部省に移管されることを受け、国立伝染病研究所の所長を辞任し、同年11月に私財を投じて「北里研究所」を設立しました。
64歳で、慶応義塾大学部医学科を創設し、初代医学科長に就任しました。
1931年6月13日、脳溢血により逝去しました。享年78でした。
北里柴三郎記念館
北里柴三郎記念館は、2023年(令和5年)、熊本県阿蘇郡小国町北里に建てられました。同じ敷地内には、北里柴三郎が1916年(大正5年)に設立した北里文庫や貴賓館と呼ばれる賓客をもてなす邸宅や生家の一部があります。
連休の中日に空も晴れて、小国町の北里柴三郎記念館を訪れることができてよかったです。
帰りに阿蘇の大観峰にも足を運びました。壮観な景色に心が晴れ晴れとしました。