熊本城
熊本城を訪れました。
熊本城は、熊本県熊本市中央区にある加藤清正が築城した城で、別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」とも呼ばれています。天正19年(1591)、もともとあった隈本城の近く、茶臼山に造られ始め、慶長11年(1606)に完成したと言われています。
加藤神社
近くにある加藤神社も訪れました。
加藤神社は、熊本城の隣にある、加藤清正を祀る神社です。明治4年(1871)に創建されました。
加藤清正の生涯
加藤清正は、永禄5年(1562)6月24日、加藤清忠の次男として、尾張国愛智郡中村(現名古屋市中村区)に生まれました。
豊臣秀吉に仕え、天正9年(1581)の鳥取城攻めの初陣以来、大小幾多の実戦を経て、百戦錬磨の功を積みました。賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍や京城の一番乗りなど、その武勲は数えきれません。なかでも、朝鮮出兵における蔚山(うるさん)の籠城(ろうじょう)は、その最も華々しいものです。
清正は稀に見る名将であっただけでなく、その土木治水に関して非凡の才能を発揮し、経世済民の偉業を成し遂げました。
清正は、天正16年、27歳の時に肥後(熊本県)に来ましたが、日本三名城の一つである熊本城を築造したり、堤防を築き道路を修め、河道をかえ、堰(せき)を築き、水門を設け、灌漑(かんがい)交通を便利にし、荒地を拓き、海浜の干潟(ひがた)を埋めて新地を興したりしました。
その他、植林を行い、製糸や陶冶工業を創めるなどして国益をはかり、民産を豊かにしました。
このようにして水利興り、地利拓け、五穀豊穣・民生裕福となり、清正就封当時、54万石と称していた肥後が実収は75万石を数えるにいたったといいます。
また、清正は豊臣家随一の忠臣でもありました。慶長3年(1598)豊臣秀吉が死去すると、6歳になったばかりの豊臣秀頼を補佐し、一命を賭して主家のために尽くし、穏忍自重、つとめて徳川家康との衝突を避け、慶長16年(1611)に逝去するまで、家康に乗ずる機会を与えませんでした。
清正の遺骸は熊本市の西郊、中尾山中腹にある本妙寺に葬られました。