井上毅の生涯
井上毅(こわし)は、天保14年(1843)12月熊本の坪井竹部(現必由館高校内)に生まれました。米田(こめだ)家の家塾・必由堂(ひつゆうどう)や木下韡村(いそん)の門で学び、20歳で藩校・時習館に入り居寮生(給費生)となりました。
慶応3年(1867)には藩命によって横浜にフランス語の研究に赴き、更に長崎に遊学し、明治3年(1870)上京して開成学校(東京大学の前身機関の一つ)に学びました。
明治4年(1871)司法省出仕を命ぜられ、政府の官吏としての生涯が始まりました。当時の司法卿江藤新平の随行で欧州に行って勉強し、大久保利通、伊藤博文、岩倉具視などの実力者に認められ、その後の活躍の素地が築かれました。
明治初期の最大の政治問題は、国会開設と憲法制定のことでした。これは民間の自由民権論者が盛んに論じましたが、政府も基本的にはその姿勢で進みました。かねて研究を重ねていた井上は多くの意見書を政府に提出しました。
明治14年(1881)10月、10年後に国会を開設する旨の詔(みことのり)が発せられましたが、国会の前に必要なのが憲法であり、岩倉具視は伊藤博文を憲法問題専任とし、その下で井上が働くことになりました。
明治15年(1882)に欧州に渡り憲法を調査研究した伊藤博文は、明治19年(1886)から井上、伊藤巳代治、金子堅太郎と憲法や関連法典の起草に当たりました。憲法は伊藤博文と井上毅が担当しました。「井上と共に最も苦心したのはいかにしてわが憲法を国体歴史に契合(けいごう)せしむるかということである。」とは、後に伊藤博文が述べた言葉です。
明治21年(1888)、草案は完成し、枢密院(議長・伊藤博文、書記官長・井上毅)の審議を経て、明治22年(1889)2月11日大日本帝国憲法として公布されました。日本はアジアでとびぬけて早く欧米流の近代的立憲国家となったのでした。
欧化と国粋の対立で教育の方向が見失われていた時、天皇の叡慮で下賜(かし)されたのが教育勅語です。政府からその起草を命ぜられたのが、法制局長官の井上でした。彼は元田永孚(ながざね)を相談相手として、苦心を重ねて作りあげました。現に井上の22篇の草稿が残っていて、その苦心のほどを示しています。
井上は明治26年(1893)3月から翌年8月まで文相として教育制度の整備と実業教育の充実に努めました。
井上は実に第一級の秀才官僚でした。明治の元勲の下でその学問才能を政治の面に発揮しました。明治28年(1895)3月15日に病没しました。齢は53でした。
井上毅生誕の地
井上毅が生まれた地に行ってきました。現在、必由館高校の敷地内にあります。
必由堂址
井上毅の誕生地の近くには、井上毅が学んだ米田家の家塾・必由堂址(ひつゆうどうあと)がありました。