細川家菩提寺・泰勝寺(たいしょうじ)跡

 細川家の菩提寺の泰勝寺跡に行ってきました。

 ここには、「仰松軒(こうしょうけん)」と呼ばれる細川忠興の起し絵図に基づき、大正11年に復元された茶室や、「四つ御廟(ごびょう)」と呼ばれる初代細川藤孝夫妻と、第2代細川忠興夫妻の墓などがあります。

初代細川藤孝公の墓
初代藤孝公泰勝院御廟
初代細川藤孝公の妻の墓
藤孝公室光壽院御廟
第2代細川忠興公の墓
二代忠興公松向院御廟
第2代細川忠興公の妻(ガラシャ)の墓
忠興公室秀林院御廟

 初代細川藤孝は歌道に秀で、後陽成天皇の弟智仁親王に古今集の秘伝を伝えました。その古今伝授の間は、大正元年移築復元されて水前寺成趣園内にあります。

 第2代細川忠興は武人でありながら、当時茶道にかけては国内随一といわれ、利休七哲の筆頭に数えられるほどの人でした。その流れが今日の茶道肥後古流です。

 忠興の妻が玉子(ガラシャ)です。玉子は明智光秀の三女で、洗礼名を「ガラシャ」といいました。織田信長の仲立ちで細川忠興に嫁ぎ、幸福な日々を送っていましたが、天正10年、父光秀の謀反により、その縁につながる者という理由で、心ならずも別居を余儀なくされ、丹後味土野に幽閉されました。のちに秀吉のはからいによって同居を許されました。

 関ケ原の合戦直前、大坂方では東軍に味方する諸大名の動きを封じるため、妻子を人質にしようと、大坂城内に入るよう要請されました。しかし、ガラシャはあくまでそれを拒み、大坂方の催促の使いのものは兵を引き連れて屋敷内に押し込む気配さえ見せました。

 ガラシャは、仕えていた女子達すべてに暇を与えて、屋敷から逃がし、屋敷に火を放ち、家臣の介錯により自害しました。ガラシャ38歳でした。

 辞世の句

 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

伝 宮本武蔵供養塔

 同じ敷地内に宮本武蔵の供養塔がありました。

宮本武蔵供養塔
投稿者

masa

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)