熊本城二の丸広場
熊本城の二の丸広場近くには、神風連の史跡が多く残っています。今回は、それらを訪れました。
二の丸広場近くの熊本県護国神社の敷地内にこの「神風連挙兵本陣跡」があります。神風連の人々は、明治9年10月24日にここに集結し、戦を始めました。
神風連の人々は、全軍を3隊に分けました。第1隊は要人(鎮台司令長官の種田政明や県令の安岡良亮など)を襲撃する30名、第2隊は砲兵営を襲う70名、第3隊は歩兵営に向かう70名でした。
武器は、古来の刀や槍、鎧のみで戦いました。
熊本の街の方から熊本城へと向かう坂の途中にこの石碑があります。
太田黒伴雄は、第2隊を率いていました。砲兵営を襲撃し、多数の兵を切り倒し、兵営に火をつけて焼き払いました。その後、第3隊の救援に駆け付けましたが、鎮台側の鉄砲の一斉射撃により、太田黒は瀕死の重傷を負い、法華坂の民家で介錯を受けて亡くなりました。時に43歳でした。
二の丸広場の隅にこの碑があります。神風連副首領の加屋霽堅や齋藤求三郎らが戦死した場所となっています。
第3隊は、歩兵営に向かいました。そこには2千名の歩兵がいました。神風連の1人が柵を越えて飛び込み哨兵を斬って中から門を開きました。神風連の70名程が中に入り、兵舎のあちこちに、用意していた焼玉を投げ込み、燃え上がる火の中を逃げ出す兵隊を斬っていきました。
しかし、鎮台側もそのうち立ち直りました。弾薬庫を開いて弾薬を取り出し、一斉射撃にうつりました。
砲兵営をやっつけて駆け付けた太田黒伴雄らの隊の応援もむなしく、次々に戦死していきました。太田黒と行動を共にしていた加屋霽堅や齋藤求三郎らもここで命を落としました。
こうして神風連の変は、一夜にして敗れ去りました。